セイコーダイバー

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2017年10月に当工房にて修理したセイコーダイバーの、3年半ぶりのオーバーホールご依頼です。3年前の修理の状況を振り返りつつ、比較してみたいと思います。


セイコーダイバー

まず、分解前の測定から。こちらは3年前に記録した修理する前の状態です。振りも出ておらず、姿勢によって歩度もバラバラでメチャクチャな状態でした。まだ動くことを良いことに、長年にわたってメンテナンスをしなかった時計の特性はこうなります。使い倒されて、もはや緩急針を動かして歩度を調整することなど不可能です。使う人や使い方によって毎日進み遅れがデタラメの挙動をする時計は、このような姿勢差のある特性です。昭和世代には『モノを大切にする=壊れるまで使い続ける』という図式の考えを刷り込まれた方も多く、オーバーホール費用をかけて定期的に整備する必要性を理解して実行されていた方は、まだまだ少数派でした。


今回の分解前の測定です。3年前に修理完了したときの性能とほとんど同じままでした。ご依頼主様いわく「月に何度か山に登る時のみ使っています」とのこと。この時計はお母様に進学のお祝いとして買ってもらったもので、思い出のアイテムとして残してある大切なお品と前回に伺っておりました。こういったご依頼の多くはご本人に時計を使い潰したという自覚まではないようです。当工房のブログなどを見て定期メンテナンスの重要性にお気づきになった方は、このように2回目、3回目と定期的にオーバーホールのご依頼をいただけるようになります。この測定結果のように姿勢差が少なく、各姿勢で直線性がよく(=安定動作)歩度が揃っているうちであれば、古い年代の時計でもオーバーホールのみで受付可能なのです。

  • オールドセイコーなどのアンティーク品は旧世代の価値観と使われ方をされた状態のものが大半を占めており、オークションや中古店などで手に入るものを含め、とてもオーバーホールのみでは受付できないものがほとんどです。

※当工房の『オーバーホールコース』は、定期メンテナンスを行っている時計が対象です。整備歴のよくわからない中古のアンティーク時計は『やっつけ放題コース』のご利用をご検討ください。(とくに国産の古いもの)


内部を分解して地板の穴石を拡大したようす。こちらは3年前の記録で上は洗浄前、下は洗浄後。洗浄前はいずれも油が乾ききっており、黒いカスが穴石にこびりついているのがわかります。


そして今回の分解・洗浄前のようす。油が2番車と3番車にはまだ十分に残っているのが見て取れます。穴石の状態もホゾの入る穴付近をのぞけば前回洗浄したピカピカのままです。ガンギ車の穴だけは油が乾いて少なくなっています。差した油の量が少なかったからでしょうか?

いいえ、ちがいます。実は差す油の種類がまったく違うのです。2番車や3番車は強いトルクに向く耐圧性の高い油で、ガンギ車のホゾには耐圧性よりも動きの軽やかさや低負荷の特性に向いた粘性を抑えた油が使われているのです。そのためどうしても乾きやすく、一定の年月(3年以上)が経てば、その時計を使っていようといまいと乾いてしまうのです。

  • 油の乾いた状態で時計を動かし続ければ続けるほど、パーツは劇的に磨耗してしまいます。そのようなものはオーバーホールを行なっても当然ながら時計が製造された時のような性能を十全に発揮することはできなくなります。

こちらは香箱をあけたゼンマイのようす。3年前の修理時は、この部分の油も完全に乾ききって、ドス黒い汚れカスだらけの酷い有様でした。かつて当工房にやってくるオールドセイコーなどのアンティーク時計はこういうものばかりでした。そして、よほど他に引き受ける店がないのか、修理のご依頼が殺到して、修理完了まで3ヶ月以上待ちの状態が慢性化してしまっておりました。


こちらは今回のオーバーホール前と後のようすです。汚れ方がまるっきり違うことがハッキリ見てとれると思います。本来、3年程度のご使用ではほとんど汚れず、油もまだちゃんと残っているのです。香箱のフタを開ければ、どれほどの年月にわたってメンテナンスされていないかなどおよそ見当がつきます。


香箱の内部は油の切れた状態で長年にわたる酷使の結果、ガタガタでした。これは3年前に香箱を打ち直して、穴を修理しているところです。ゼンマイも取り出して洗浄しますが、ベンジンカップは一発で真っ黒になり即廃液です。こういう案件は都度ベンジンを新しくしないと他の作業には使えなくなるほど汚れます。時計修理の3Kなるものがもしあるとすれば、『キタナイ』『クサイ』『キモチワルイ』だろうと思います。汚れとベンジンのブレンドした匂いが部屋に充満すると、気分がよろしくありません。お手手まっくろ。溶剤により皮膚の奥まで汚れが浸透した日には、恐ろしくて米も研げません。


お次はバランスを分解して振れ見機にかけたところ。ひげぜんまいが巻き出しから完全に狂っており、水平に広がっておりませんでした。国産の古い時計にはなぜか多いです。ヒゲゼンマイの質が経年により変形しやすいことに加えて、扱いのよろしくない雑な作業の職人が多く、こういうところまでちゃんとバランスの状態をチェックしていません。だいたい振れ見機さえろくに使いません。一般のサラリーマンと同じで、社畜化した給料ドロボーみたいな人ばかり。年配者はいばるだけ名人芸。社会の様子が透けて見える気がします。それがこういうところに表れます。

  • 当工房では、このような 60年〜70年代を中心としたオールドセイコーをはじめとするアンティーク・ウォッチは、初回のご利用は原則として『やっつけ放題コース』でのみ受付することにいたしました。

再びバランスを受けに取付けして、アオリ具合をみているところ。このモデルは『ヒゲ棒』というより、『ボトル』形状をしているセイコー独自の方式。受けドテの側にスペーサーのような突起があって、ひげをセットして閉じると強制的にスリットの幅が固定されてしまうタイプ。時計師の側でヒゲ棒を調整してスリットの幅を変えたりはできないため、アオリは内当ての加減でのみバランスの特性を整えます。両当ては事実上放棄した構造なので、機械式時計としての性能を追求するような調整はもともとできません。ヒゲもヤワなら、ヒゲ棒も簡略型。写真だけ見比べても別の時計のバランスと何が違うのか分かりにくいかも知れませんが、細かく見ていけば素材から加工法から、何から何までクオリティが全く異なる別物なのです。

ヒゲ棒をいじってムーブメントの最終性能がどのように変化するか、当工房ブログの熱心な読者であればすでに先刻ご承知のことと思います。(ランゲ&ゾーネの事例などを参照)ヒゲ棒の調整は時計の性能に大きな影響を与える要素のひとつです。それが調整できない仕様というのは、時計師からすれば少し寂しいです。カローラはいくら腕のよい整備士でもセルシオには化けません。機械式時計も同じです。


オールドセイコーも60年代に諏訪と亀戸でそれぞれ KSとGSのブランドを立ち上げて、互いに切磋琢磨するように新機種を競って世に送り出していた頃のものには、ムーブメントにも当時の勢いのようなものが感じられ、今見てもなかなか面白いところもあります。ところがその後70年代のクォーツの躍進により、機械式時計製造は性能とコスト競争にさらされるようになります。ひたすら衰退の一途を辿る運命にあった、いわば斜陽産業とみなされはじめた時代です。今回ご依頼のモデルなど63系には、すでにその傾向が表れております。(ちなみに63系は廉価ラインであるセイコー5シリーズに受け継がれ、現在でも4R系として搭載されています)


アンクルを取付けしたところ。4番車が邪魔をして、入り爪のほうが見えません。4番車には一応丸い窓があって、そこに差し掛かったときだけチラッと一部が見えるのですが、いずれにしてもツメ石の調整はやりにくいです。時計師が再調整するための作業性などハナから配慮がされておりません。

国産とスイスなど本場のムーブメントを見比べると、とくにアンクル周りの処理に決定的に違いがあります。スイスの機械を模倣していた頃の国産機械式は、調整がしやすかった。日本独自の設計で生み出されたムーブメントは、年代がくだるほど時計師にとっては扱いにくい構造になってゆきます。


アンクルそのものを拡大したようす。70年代になるとクォーツ部門にリソースを振り向けたとみえ、機械式は粗末な扱いを受け始めます。このアンクルのツメ石はそれを物語っております。シェラックは申し訳程度に流されていますが、そこに美しさや気品などは微塵も感じられず、もはや昔日の面影はありません。


パーツにも樹脂製のものが多くなります。クォーツ時計をコストダウンして量産化させる流れの影響であることは明らかです。上の命令でやれと言われたから。それ以外に何らかの理由や判断があったとも思えません。現場の人間もそうだったでしょう。「機械式時計とは」など下手に自前の哲学を語ろうものなら、叩かれるのが日本の企業社会です。その後、クォーツ式のほうはとうとう全部のパーツが樹脂やその他に取ってかわり、工場までが国内から海外に移転し、さらに今では人間ではなくロボットとコンピューターが作っています。


自動巻ブロックを裏返したようす。セイコーの開発したマジックレバーは、優れた巻き上げ効率を誇り、パーツ点数も少なくよくできた機構と思います。ここにも樹脂のパーツが進出してきました。「とにかく安く作れ」「大量に作れ」「セイコーに作れ」降りかかる無茶ぶりの数々に知恵を絞って応え続けてきた現場の苦悩が私には痛いほど分かるように思います。その結果、機械式時計としてはどうにも中途半端なつくりとなってしまった感は否めません。

  • 機械式時計は、ちょうど『オリンピックの100m走』のよう。オートレースでもなければ、鳥人間コンテストでもない。鉄の塊が空を飛ぶ時代に、なぜ人間が100mを全力疾走せねばならぬのか。そして、それが今も世界中の人々を熱狂させる競技として受け入れられているのはなぜか。感動を与えるドラマとなるのはなぜか。

カレンダー機構にも幅を利かせる樹脂製の歯車。これねえ、金属製とちがってやわらかいですから。取り扱いが雑だとボロボロに形がくずれちゃってダメになってしまうのですよ。長持ちしませんねえ。いくら安くなるのか知りませんけど、金属でしっかり作ればずっとメンテナンスして使えるはずのものが、この樹脂製にしたがために交換パーツの調達もままならず山のように廃棄されたモデルがいっぱいあるのです。もはや使い捨て時計といってよい構造ですし、クォーツ時計は実際その後そうなりました。安く大量に出回っているので、修理するより買い換えたほうが早い。それで得たものはなにか。失ったものはなにか。


そんなことは皆さん分かっていらっしゃるのでしょう。こんなことは後の世になってから何とでも言えること。当時を生きてこられた方にとっては、この時計こそが伴侶であり、思い入れのある相棒であり、共に生きてきた証であったことでしょう。その想いを酌むなら、せめて今の私の持っている技術でお役に立てることはやりましょうと。

そのような心意気で取り組んでおります。サービス実施の内容はご予算の都合でコースによって異なりはしますが、いずれのコースのどの時計であろうと、向き合う姿勢は同じです。


ケーシングまで来ました。ちょっと今回は辛口すぎたかも知れません。オールドセイコーにも良い点はありますよ。ケースとかものすごくサビにくいステンレスなんですけど、スイスでも持っているマニュファクチュールが少ないほどの設備で作られています。半世紀前にこんなものが作れた国は、当時ヨーロッパなど欧米をのぞけば日本だけだったと思います。アジアの近隣諸国は日本が戦前に作っていたようなレベルの時計すらまともに製造できなかった。そういう点では決して世界的に遅れをとっていたわけではありません。しかし、その後の機械式ブームの再来を経て、今日ではすっかりスイスをはじめとする諸外国の後塵を拝する分野に成り下がってしまったように思われてなりません。その轍をみる気がいたします。

結局、最高級の機械式時計といえば、多くの一般の方はロレックスなどスイス製のブランドをあげるでしょうし、世界中の人々が認めるところだと思われます。コストを追求するのは時代の要請だったとはいえ、その後は中国が世界の工場と呼ばれるようになって、この点においても安物競争ではどう足掻いても日本製は中国に勝てませんでした。クォーツで大量生産・大量消費型の旗手として日本製品が市場を席巻したのも、ほんの束の間の夢のように終わったことは、なんとも皮肉なことです。

その中国も、すでに成長に陰りが見られるようになって久しく。あっという間に時代はどんどん移り変わります。無常なる世の流れの中にあって、オールドセイコーも古き時代を伝える骨董品の仲間となっております。これからの人がわざわざ手を出すような品物ではないことは、今回の記事でよくお分かりになったことでしょう。


だいぶもうくたびれた時計ですので、オートワインダーにかけながら実測値をみまして。日差がだいたいプラスマイナス・ゼロ付近の結果になるときの特性がこんな感じでした。これくらい古い時計になると、タイムグラファーの弾き出す数値そのままでは調整できません。時計理論を弁えた時計師の経験と勘により調整する必要があるのです。

アンティーク時計においては腕に装着しているときはもちろん、時計を外したときの状態までも含めて日較差など歩度に影響を与えますし、個人差がでます。いわば、使用者側の知識やテクニック如何で上手に使いこなせるかどうか差がでるのです。何も考えずに使って精度が出るのはロレックスのような一部の高級品だけと知っていただきたいものです。当工房が6姿勢の公開をすることは、単なる技術の誇示ではなく、使用者にとって有益である情報であるからでもあります。


完成。 3年前(左) 今回(右)

見た目にはこれといって何も変化はございませんでした。しかし、内部ムーブメントの状態はご使用の年月にともなって日々刻々と変化をし続けております。これまでと変わらない姿で、いつまでも一緒に時を刻む。そのためのサービスをご提供して、時計オーナー様のお役に立てれば幸いです。