10年落ちの中古品を買ったとの事で、オーバーホールのご依頼です。この手のものは、正常動作することが受付の大前提です。当工房で入手できない交換パーツが必要なものはご返却となります。中古品の購入をすすめるものではございませんのであしからず。
ジャガールクルト・マスター リザーブ ド マルシェ デイト
3つの小窓のうち左上がパワーリザーブです。残り時間を数字で示しています。全巻きだと約44時間程度の動作と思われます。24時間経過後のいわゆる“半巻き”が、ちょうど真ん中の『20』の目盛りあたりになります。この半巻きと全巻きでいったい何が違うのか。それを測定器(タイムグラファー)にかけて見ていきます。
まず、全巻きの特性から。振り角は平姿勢でいずれも280度。縦姿勢では230〜240度前後まで振っています。歩度は平姿勢では最大+10秒/日ですが、縦姿勢ではそれぞれー6〜ー16秒程度までとバラツキがあり、遅れになっています。
全巻きで平姿勢の状態なら、日差+10秒以内でしょう。そしてその部分(平姿勢)だけタイムグラファーの数値をとって売るような手法が横行しております。
こちらは半巻きの特性です。振り角は平姿勢で200度以下。縦姿勢にいたっては140〜150度あたりまで落ちてしまっています。これでは、ちょっとした衝撃によりバランスが停止してもおかしくないほど、振りは弱い状態です。歩度もさらに遅れて、最大ー66秒まで遅れる姿勢が出てきています。ちょっとこれでは日常の実使用には耐えられず、時計は常に遅れる動作となるでしょう。
、、、おいくらで買ったんでしょうかねぇ?
このように、時計は腕に装着して24時間動かせばどうなるか、で実際の歩度が決まるのです。全巻きで平姿勢の状態だけなら、緩急針を少しいじればいくらでも【性能よく】みせることができます。それはウソです。全巻きと半巻き(24時間経過後)のそれぞれ6姿勢のデータを見て、はじめて本当の正体がみえてきます。
中古品の販売手法にはお気をつけください。1姿勢だけのデータにだまされないでください!
内部の機械を分解していきます。過去に全くメンテナンスされた形跡がなく、ネジの頭などはやたらとキレイです。シースルーバックですから、裏蓋を開けなくても裏からキズ見などで機械を見られますが、まるで新品のままのように見えます。中古店の店頭などで確認したって、ノーメンテかどうかなんか分かりっこないです。そういうものでも分解していけばどんどんボロが出てきます。
中古品はリスクだらけなんです。
輪列の2受けのようす。上は分解時、下は洗浄後。油はほとんど乾いており、汚れカスだけがこびりついております。
続いて輪列1受け。わずかに油が残ったところと、完全に乾いてしまったところが混ざっています。カスが周囲にまで飛び散っております。こういう使い方をすると、歯車のホゾはどんどん痛んでいきます。受けは洗浄すればご覧のようにピカピカになりますが、磨り減った部分などはもう元には戻りません。
これは小秒針がつく歯車を拡大したところ。テンションのバネが当たる部分にうっすらと赤サビが出ております。汚れカスが付近にも飛び散っています。油は完全に乾ききっておりました。わずかでも油が残っていれば状態は天と地ほども違います。こういう部分部分の積み重ねにより、冒頭のような激しい特性の落ち込みとなって性能の劣化として表れてきます。
小秒針の歯車を取り外した状態の地板のようす。穴石にも油は全く残っておらず。カスだらけ。
こちらは地板の輪列側のようす。油が残っているのは角穴駆動車とか2番車とか、1日にせいぜい数回転〜数十回転しかしない部分のみ。残りは全部乾ききっています。ガンギ車などは5振動の時計でも毎時600回転する計算です。過酷です。酷使であり虐待です。24時間で何万回転するのでしょう?1週間使ったら?1ヶ月使ったら?1年では??
、、、、ああ恐ろしい。
バランスを取り外したところ。耐震装置とバネ。バネはとれちゃいました。(よくある)
分解したパーツをベンジンカップに入れて、ひとつづつ刷毛で丁寧に洗っていきます。全自動超音波洗浄機のようなそれ自体が高価で洗浄液や廃液処理にもランニングコストのかかる環境破壊につながりかねないようなマシーンはウチにはございません。(まじめに正しく処理したら到底ウチのような価格でできないはず)貧乏なこともありますが、それ以上に理由があります。私自身の時計師の経験として、ベンジン手洗いで落ちなかった汚れなどただの一度たりとも無かったこと。時間はかかりますがね。それに比して、超音波洗浄機を使っても落ちない油汚れというものはしばしば見られたこと。超音波洗浄機を使ったら、パーツが壊れてしまったことも数度。あれはクソ丈夫なムーブメントを、一人で1日に何個も組み上げるための時短マシーン。考える必要ない。ひたすら作業すればよい。理由は本当にそれだけだろうか?手洗いはその日の体調によって出来不出来があるかも知れない。だが、それがバロメーターになっている。「あ、今日はなんか手の動きが悪いから、作業に気をつけよう」とかわかる。アナログの感覚。
マシーンにはそれがない。こちらの好不調などお構いなしに時間ピッタリに洗い上がる。効率的だろう?ホラ、お前もこのマシーンを使うんだよ。同調圧力に屈してしまう。がんじがらめのスケジュールで下っ端は奴隷のようにコキ使われて、心を病んだ時計師仲間には自殺した者も少なくない。(ノルマが決められているからそれに合わせざる得ない。時計師として本当にやりたいことができるのだろうか)なぜ日本ではこうも自殺者が多いのか。息苦しくて、生きていることを喜びとは思えなくなる社会なんて、どんなに屁理屈をこねようが、私はちっとも良いとは思わない。
思わず熱がこもりましたが、手作業で心を込めて行えば時計がそれに応えてくれるものです。それがウチのポリシーです。
洗浄が済んで、パーツケースに収めたところ。
汚れた部分もピカピカに。
針回し機構を組んでいくようす。
とれちゃった耐震バネ。これは高級機に多いタイプなのですが、とれやすい。まあ、とれてもこうして付け直せばいいだけなんですが。厄介なのは外れた拍子にどこかへ飛んでいった場合。そうなると、床を這いつくばる羽目になります。
こちらはバランス側。耐震装置もキレイに洗浄して、あたらしい油もたっぷり入っています。ここも分解時は片方完全に油が切れていました。中古品なんて得体の知れないものですよ。こんなものを買って。みなさん、ギャンブラーだ。
アンクルを拡大したようす。左は洗浄前で右が洗浄後。
矢印の部分は『衝撃面』というのですが、ここをガンギの歯が滑り落ちます。この面だけにはみ出さないように油を差しますが、やはり10年もノーメンテで完全に乾ききっていますね。歯の通り道にそってカスだけが汚れとなって残っています。これもピカピカに洗浄します。光を反射させて一面にキラッと光るほどキレイならOK。わずかでも汚れていれば、洗浄前の画像のように汚れが目立ちます。衝撃面がピカピカなのはもちろん、ほかの面もすべてピカピカにします。
いつもの香箱のゼンマイに注油。この五点差しもWOSTEP流。私はWOSTEPのサティフィケートを持った職人であることを誇りに思っているので、この部分は誰が何と言おうがこの方法で手入れを行う。ショーワのあやしげな徒弟制で鍛えられた老職人の中には、実に色々なことをおっしゃる方々がいる。いわく「ここにはこうやってタラーリとD5でも流しておけばいいんだ」ですとか。(ドボドボ、、)「香箱なんて開けなくていい」ですとか。(そんなことよりサッサとやれ!)いやはや千差万別。摩訶不思議な時計修理業界。
こちらもいつものバランスのひげ具合をみる。今回は緩急針のないフリースプラング・タイプだったので、組んだ状態でもおひげの具合がよく見える。うん、キレイなアルキメデスだ。
水平ヨシ。
輪列を組んでいくところ。
アンクルまで組んで、ガンギ歯との噛み具合を確認する。
ムーブメントの完成となりました。
ノーメンテの時計で唯一、いいなと思うところ。それはネジが全く痛んでいないということだ!
引き続き、パワーリザーブとカレンダーの組み付けへと進みます。ジャガールクルトのこのモデルは、シンプルながらよく考えられたしくみ。
ハアイ。お面をつけて、お顔のパーツもつけて、できあがり〜♪
モダンなフェイス。どことなく喜劇役者の表情にも見えないこともない。(?)
躍動感がそう思わせるのか。不思議な魅力のあるデザイン。
今回も私にやれるだけの仕事はやって、納得のいく状態で無事にケーシングまで漕ぎ着けました。何かに追われるようにフタをすれば糸クズでもなんでもゴミが入る。名残惜しい気持ちで次の再会までしばしのお別れだと思えば、そういうことは起こりにくい。(不思議とそんな気がする。笑)
最終特性【全巻き】
左上)文字盤上 振り角 274° 歩度 +006 sec/day
右上)文字盤下 振り角 278° 歩度 +008 sec/day
左下1) 3時下 振り角 237° 歩度 +004 sec/day
左下2)12時下 振り角 242° 歩度 +003 sec/day
右下3) 3時上 振り角 241° 歩度 +002 sec/day
右下4)12時上 振り角 240° 歩度 +002 sec/day
冒頭の最大姿勢差Δ26秒はΔ6秒まで改善。これでも最高性能というわけではない。ジャガールクルトのマスターコントロール1000モノは武者修行の上海時代をふくめて数えきれないほど対応してきました。これは新品の性能からはやや落ちます。まあ10年ノーメンテのものですから。最高性能を求めるのは虫が良すぎます。そうはいっても、これはかなり今回はうまくいったほうでしょう。
さらに【半巻き】の特性。平姿勢で240度。縦姿勢200度。冒頭のときはそれぞれ、200度と150度でした。特筆すべきは歩度のほうで、一部が遅れになりつつも、最大姿勢差はΔ9秒までに改善しています。(分解前はΔ60秒超〜という時計としては問題外の状態でした)これこそ、実用可能な状態です。じゅうぶんに日常のご使用で精度が出ることが見込まれます。
完成。
実施コース:【 オーバーホールコース 】