原材料・インター89

International Watch Company "cal.89"

インター89を工房主の趣味で修理した記録。


インター(IWC) cal.89

世には出来が良すぎるがために、かえって不幸を招いてしまうという例があります。

これなどもそのひとつでしょう。インター89。言わずと知れたインターナショナル・ウォッチ・カンパニー(現・IWC)の傑作と目されるキャリバーを搭載した、マニアにも今なお人気の高いモデルです。

c.89設計者のアルバート・ペラトンはIWCの中興の祖とでもいうべき数々の業績をあげました。(ペラトン式自動巻きなども彼の発明によるもの)

ムーブメントの試作品を作っても、少しでも気に食わないとライン川に容赦なく投げ捨てた、というエピソードに強烈な人柄が良くでていると思います。その彼の設計です。油なんか全く差さずとも動いてしまう。そのせいで今日まで残されているその時計たちは、まあ使い倒されてボロボロになってしまった個体が多い。油が切れても持ち主が気づかず、使い続けてしまうから。


ガワは18金。これも昔、時計師を目指して一念発起し、時計学校に入った後だったか前だったか。とにかく機械式時計が好きで好きで、一緒に寝てしまうくらいの時に中古品を買ったもの。

当時の私はロレックスなんてダサいと思っていましたね。ギザギザのベゼルとか、コンビのあの金だらけの悪趣味なデザインだとか。おっさんくさいし、なんだか成金っぽい。

なによりやたらと有名で、バカでも何でもスイス高級時計といえばロレックス、と知ったような風潮を作り出しているあたりが近寄りがたかった。

マニアってのは売れているものとか、有名なものほど認めないというか、認めたくない偏屈者が多い。私も典型的なそれだったわけです。(笑)

(蛇足ながら誤解なきよう念の為追記する。時計師となってから私が最も評価している時計のキャリバーのひとつはロレックスのcal.3135であり、それは当工房の他の修理記事を読んでいただければすぐにお気づきになるだろう。かくいう私もその後一本のDJを手に入れて現在も愛用している。人間などというものはわからないものだ。)


ずいぶん使い倒されて、穴が完全に変形しているようす。(左)

金は柔らかいので、バネ棒の鉄に負けてやがてすり減って穴がどんどん大きくなり、最終的には機能しなくなります。これはその寸前までいってしまっている個体。バネ棒の頭が完全に埋もれるほどガバガバになって、ラグを叩いてその穴を変形させて穴を無理矢理縮めて、かろうじてバネ棒でベルトがつけられるようにしてある。

本来どうにもならない状態ですが、18金ロウなど入手して惜しげも無く穴をふさぎ、自分で穴を開けなおしました。(右)


穴は4箇所ともすべてこんな感じで破綻していたものを、どんどんロウで埋めて彫りなおしました。

18金のロウ付けなど、ジュエラーさんは毎日の業務ですから新品のように直せるでしょうが。これはしょせん時計師の私が隣の畑の仕事を見よう見まねでやっているものです。

本人はうまく直したつもりでしたが、こうして写真にとって客観的にみると、まあ「やっつけ」ですな。ロウ代だけで1万円くらいすっ飛ばしましたが。趣味ですからコストなど度外視です。せっかくの18金時計ですし。机の引き出しに眠ったままにするよりはいいだろうと。


内部の分解は、これはいつものように。

こちらも外装に負けず劣らず、いたるところが摩耗したり変形したりしていて、ちょっと継続利用はどうかと思われる状態でした。


バランスはブルースチールの巻き上げヒゲがついておりました。このあたりが鉄ヒゲも最後です。その後社名もIWCと名前を変えて、ヒゲも合金へと変わっていきました。

この個体のバランスは見た目には綺麗ですが、裏を返せば過去まったくメンテナンスされずに使い倒されたかも知れないということです。整備傷がまったくない個体は、超絶スゴ腕の時計師の世話になっていたか、単になにもしなかったかのどちらか。

まあ、圧倒的に後者ばかりなのが現実ですね。みなさん定期的にメンテナンスなんかしようとしない。ぶっ壊れるか飽きるかするまで使い倒してハイ、おわり。少しでも金になるならと中古屋に売り払って、それをどこのアホだかが買って、アンティークの名機だ、なんて有難がっている。そんなことしてる奴らばっかりだ。とくに日本人。


2番車の筒カナのつく根元、受けとの接点がすり減りがひどく、すっかり変形してしまっております。

2番車だけでも交換パーツがあれば楽に修理できますが、業務のついでにお客のパーツを探しつつ、これも市場に出てくるタイミング次第なので根気よく探し続けたのですが。出てこないこと、出てこないこと。

結局、そのまま10数年の歳月が経ちまして、インター89の交換パーツなど、もう手に入らないと悟りました。出てきても、ダメなやつばかり。パッケージ未開封の新古品じゃなきゃ買わない。絶対に。でも、もう手に入らないです。私が求めるのはそのクラスのモノだけなので。ガイジンはセコくて、ダメな抜き取り中古パーツをさも使えるパーツのように騙して売るような輩が多い。結局、内を見ても外を見ても、私の目にはろくでもない人間ばかりの所業が目立って、すっかり私の神経は滅入ってしまうのです。

どこかに天使のような方はいないものか。渡る世間はーーとは、よくぞ言ったものだ。


独り愚痴をこぼしつつ、手に職とはたいしたもので、いつしか直してしまう。

バネ棒の入る部分も、2番車の完全崩壊したといって過言でないほどの磨耗も。時計師になりたての頃の私の腕前では正直、こりゃダメだわ、と思った。それもあり、長いこと眠らせておいた個体のひとつでしたが。

これも、曲がりなりにも直してしまえるようになった。


ついに、この文字盤の日の目を見るときがきたか。

盛大な無駄使いをしていた物欲まみれのあの頃に、きっと出会ったにちがいない。クロワゾネ(七宝)仕立ての文字盤とは!

あちらではミニアチュールなどでもおなじみの技法です。西洋絵画のような美しい肖像画をペンダントサイズに細密に絵付けしたエナメル画もこの仲間ですが。

ジツは、とんでもなく失敗率の高いとてつもない歩留まりの悪い技法でもあります。何度も塗っては焼いてを繰り返すうちに割れてしまいやすいのだとか。

これはそのエナメル画ほど細密画というのでもなく、クロワゾネはアマチュアでもできるレベル。しかしながら、センスの良さを買いました。

400米ドルを値切ったか、値切って400米ドルだったか、記憶もおぼろの昔に。

無名のアーティストだったけれど、今にして思えば値切らず買ってやれば良かったと後悔している。出どころはテル・アビブ。ebayで。これを作った彼/彼女は、今も元気だろうか、、、。どうか無事で生きていて欲しい。(彼の地の現状を知るいま、これほど真摯に世界の平和を願わずにいられようか!)


裏がえしてみたところ。

若干の違いはあるものの、明らかにインター89の文字盤であることがわかります。

このため、あながち全くの改造でもないのですが、完全なる純正品とも言えず、リユースとでも言えばよろしいのか。再創造して作られたモノ。

今回、文字盤に象徴的ですが、私の趣味にてよいように作り変えてありますので、それで「原材料ー」と相成りました。(笑)


ラグの足回りもスッキリと。

研磨も同時に行なったため、いくぶんシャープに細身になりました。

強度はもう日常使用には耐えられません。よそ行き用のドレスウォッチ。または秘蔵のコレクションとして。

ゆったりと構えて美術館めぐりや散策する一日のお供などに。(しかし、、、そのような時がまためぐってくるのだろうか)


ケーシング。

ネジの頭も磨いてやった。

その手間の甲斐もあってか、グダグダでいっときは再起不能と諦めかけた個体が、まさしく甦った感が強い。

裏蓋で閉じてしまうのが、あまりに惜しい。


こうなりゃ、なんでもアリじゃ。

これぞ、ザ・改造。

とある別の18金の時計のベゼルが、ちょいと加工してやればそのまま裏スケ用に化けることに気づいてしまい、手持ちの品からそそくさと流用。

こんなことできるのも、すっかりどっぷり、この世界でメシを食ったからでしょう。


即席・裏スケ完成〜♪

中枠がちょっと貧相な感じで、化粧板でもつけてやればもう売り物と変わらないくらいにはなるでしょうが。

私的にはもう十分満足したので、これでよし。


最終特性

左上)文字盤上 振り角 305° 歩度 +028 sec/day

右上)文字盤下 振り角 307° 歩度 +031 sec/day

左下1) 3時下 振り角 251° 歩度 +004 sec/day

左下2)12時下 振り角 247° 歩度 +010 sec/day

右下3) 3時上 振り角 248° 歩度 +015 sec/day

右下4)12時上 振り角 245° 歩度 +020 sec/day

今回、内部はあんまりシビアに追い求めず、その分のエネルギーを外装に注ぎ込んだため、この機械にしては性能の戻りは今ひとつ。むしろ廃棄同然の死に体だったにしては上出来。

これでいい。客のものではもう少し詰めないと、という強迫観念で仕事するようなところが私にはあります。

私自身は、ジツはもうそんなに性能追い求めていません、機械式時計に。中古品は入手した時点で取り戻せる性能はもう決まっているんです。

新品の性能の持ち点が10で廃品が0だとするならば、時計師のメンテナンスの仕事はその進行を限りなく遅らせて、長い年月を持ち主と共に9、8、7、、と歩ませること。

よく勘違いされている方がいるが、どんなものでも10に戻せるわけではないし、いわんや11や12にするとかそれは絶対にあり得ない。

ろくにメンテもせずに持ち点が5の状態のものは、5の性能にしか戻らない。3なら3。ゼロはゼロ。まあ、極端にわかりやすく言えばですけども。

それを、なんとか可能な限り使えるように点数を稼ぐのが技ですが、限度というものがあります。3を5に戻すだけでも大変なことなのです。それがまったく一般には分かってもらえない。(どんな状態のモンでも腕が良いなら10になるはずだ、という無知がはびこっている)

パーツ交換という大技には予算が必要。それが唯一、10に近づけるマジック。そしたら今度は「そんなお金はない」という。それで性能が出せるわけがない。どっちとるかだよ。

結局、過去の整備歴などはどうあれ、目の前の現実である個体に精一杯の仕事をして、その状態なりを受け入れるほうが自然だし、そういうものです。それが結論です。だからもう性能は追いかけない。とくに今回のような中古品は、現物の状態次第です。元がどんな名機だろうがなんだろうが、手入れが悪けりゃダメになる。その事実と状態を受け入れてもその時計を使いたいというのでないのなら、それはただ幻想を追いかけているだけの憐れな物知らずでしかあるまい。

中古品は「やっつけ」る。


修理前(左)では、ラグ足の穴が外まで貫通しかかっており、薄くなった部分が変形してぷっくり飛び出しているようすが見て取れます。もう本当に寿命でした。

修理後(右)では、この部分は叩いてまっすぐに戻し、内側から再度18金ロウを充填してあるので、再研磨にも耐えてキレイな表面にもどっています。


アトリエ・ドゥ "refined; cal.89"

完成。


もとが本物のインター89の文字盤を再利用したものだけあり、針とインデックスの相性はピタリ。

元々のインデックス部分をうまく残して、周囲をクロワゾネもろとも溶けたガラス質でおおってしまうところに技が光る。これが高級感を損なわず、オリジナリティの演出に成功している。


即席のやっつけ裏スケにしては、うまく収まった。

いよいよ世界が動乱の様相を強めつつあり。

明日死んでもよい、とまではカッコつけ過ぎて私のセリフには似合わないが。

手持ちの時計の修理においては、もう思い残すことはない。


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